vol.20  やっぱり木がいい の巻
最近、中古の足場板が売れている。
でも、足場板としてではなく、「内装仕上げ材」としての用途らしい。


そう、世の中いつのまにか「古材」ブーム。
ブティック、飲食店、ジーンズショップ・・・
気にしてみるとかなりの確率で古材を使っている。
解体した日本の民家の材料だけでなく、わざわざ輸入までして流通させている。
新品よりも値段が高いのだから不思議だ。
どうして「古材」は魅力があるのか?


新品に無くて、「古材」にあるものといえば?
キズ・日焼け・手垢・加工のあと・・・・などなど。
新品であればまさしくクレームの対象となるべきものが、
逆に「付加価値」として評価される。
どうしてそんなものに「価値」があるのかというと、
強引に言い切ってしまえば「アジ」ということなのだろう。
「アジ」とは「味」であるからもともとは味覚のことに違いない。


「味の玉手箱や〜!」(by彦麿呂)なんてギャグもあるが、
味覚くらい奥深く、かつ複雑なものはない。
辛いとか、甘いとか、そういう味の方向性は誰でも言えるが、
本当にうまいものは表現できないものだ。
「うまい!」と叫んで、満面の笑みを浮かべるか、
「まったり」とかいった結局よく分からない表現をするしかない。


「味」とは即ち「深さ」の問題なのである。
右とか左とかではなく、「深さ」だ。


今見ているもの、触れているものは「現在」に違いないが、
その中に刻み込まれた「人間の営み」こそが「アジ」を作り出している。


人間に置き換えてみるとよく分かる。
年を取ればアジが出てくるものではない。
積み重ねた時間の質が問題なのである。


暮らし、人間の営みとの接点にその木はあった。
接点には必ず摩擦が生じ、その摩擦によって形を変えるのは「木」のほうだ。
だから木には人間の営みが刻み込まれる。
何千、何万回という開閉で磨り減った敷居の溝。
子どもが付けた柱のキズ。
角が丸くなった階段の板。
木という素材は常に人のそばにあり、そして人を傷つけない。
人の暮らしとともに少しずつ自分をすり減らしながら時を刻んでいく。
だから「木」はやさしい。
それが「木のこころ」なのである。


昨今の古材ブームは、ある意味で
木の本当の価値を見直すきっかけになるかもしれない。
木がいかにやさしく、身近にあり、
そこに暮らす人たちと同じように呼吸をしながら生きてきたか。


人間はきっと本能的に木のやさしさを知っているのだ。
古びた木を見ながら、そして感じながら、
人は思い出し始める。
自分のそばには常に「木」という素材があったこと。


やっぱり、「木」がいい。
こころから、そう思う。